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当社の歴史

創業明治20年の老舗スポーツ店

    

会社概要

  • 会社名 有限会社竹波運動具店
  • 所在地 岡山県岡山市北区表町二丁目2-82
  • 連絡先 TEL:086-225-3788 FAX:086-232-5098
  • 創 業 1888年(明治20年)
  • 設 立 1950年11月27日
  • 資本金 300万円
  • 代表者 代表取締役 竹波 和子
  • 事業内容スポーツ用品小売業

沿 革

1888年(明治20年)


竹波寅吉商店として学校に理科の教材を納め始め、体育器具・スポーツ用品を取り扱うようになる。

1950年11月27日


有限会社竹波運動具店設立。

1993年12月


現本店5階建て新社屋完成。

2001年11月


4代目竹波和子、代表就任。

歴史資料

明治36年の広告

日清戦争が1894~1895年(明治27年~28年)、日露戦争が1904~1905年(明治37年~38年)。丁度その間の明治36年。
電話が岡山に初めて開通した日の山陽新報に、竹波運動具店の前身竹波寅吉商店が広告を出しました。


竹波寅吉商店の広告 竹波運動具店の前身、竹波寅吉商店の広告の両端は樟脳たばこと天狗たばこの広告です。この時まではたばこは自由販売でした。 日清戦争は朝鮮半島の覇ケンを巡る清朝との戦争 日露戦争は南下するロシアとの満洲を巡る戦争です。 辛うじて日清戦争に勝利したものの国力はへとへと 軍費を稼ぐために 36年以降にたばこは国の専売になります。 日本が帝国主義時代に突入するターニングポイントです。 この後、ロシアとの日本海海戦に勝利し太平洋戦争に突入するわけです。これはその時代を反映した広告です。

そもそも竹波の先祖は器用な人間だったらしく銀細工師でした。 明治になって 学校の帽しょうを作っていたと思われます。歴代の人が作った指輪とかたばこ入れ、木彫り皿が残っています。 恐らく第六高等学校にも最初は帽しょうから取引したのではないでしょうか? その後、六高の先生から文部省の通達を見せてもらい、この広告にある体操器機を扱うようになったと聞いています。 その内容は、これからは富国強兵、身体強健な日本人を作らなくてはならない。ついては体育の授業を大幅に増やす。従って体育用品を扱ってはどうかと勧められたそうです。 既に六高へは帽しょうから理化学機材を納品するようになっていました。まさにその時の広告です。理化学標本の文言も明記されています。 実際3代目一夫が子供の頃フラスコや鉱物標本が多数店にあったそうです。

最新の西洋から入ってきた ピンポン、一命、テーブルテニス、ローンテニス(硬式テニス)、ベースボールは、明治5年新橋品川に鉄道が敷かれても日本全国は程遠く、下津井から船で紀州 遠州灘を通り 江戸に仕入れに行っていました。 私が 大学を出て帰ってきた時に 倉敷の医者が戦前はここでしかテニスラケットの張り替えはできなかったとといっていました。 事実、本郷東大前の店から硬式テニスのラケットを仕入れて船で翌日店に飾ったら黒山の人だかりが出来たそうです。これは新式の魚を採る網だと評判になったそうです。

明治37年の野球部

明治37年、岡山師範学校(後の岡山大学教育学部)に野球部が創設されました。
この岡山師範学校野球部一年生チームの用具を揃えたのは竹波寅吉でした。


岡山師範学校野球部

美星高校三宅校長より寄贈して頂きました。

このころ既に六高には野球部がありました。
オランダ通りがお城の内堀だった当時、寅吉が六高の野球部に勝ったら、今ある表町の裏座敷で蓮池を見ながら牛鍋をご馳走してやると褒美を与える約束をしたそうです。
岡山師範学校の野球部は、見事六高の野球部に勝って裏座敷ですき焼きを食べたそうです。

足袋のような履物に、帯のようなベルトが時代を感じます。
竹波寅吉が納品したキャッチャーミットやグローブ、バットはこのような形をしていたんですね。